釜飯屋の更級日記

(二十九)東山

 卯月の下旬、故あって東山の某所へ移る。
 道の辺は、苗代に水を引いてあるのも、田植えがしてあるのも、一面何となく青々として面白く見えることだ。
 陰も暗いほど山が間近く見えて、心細く物悲しい夕暮れ、水鶏くいなが大いに鳴いている。
 
  たたくともたれかひなの暮れぬるに
   山路を深く訪ねては来む
 
(戸をたたいても誰が来る。水鶏のようにたたいても。暮れたというのに、山路を深く誰が訪ねてくるだろう)
 
 霊山りょうぜん寺に近いところだったので参拝した時、いたく苦しいので、その山寺にある岩間の泉に寄った。手にむすんでは飲んで
「この水は飽きないものに思われますね」
と言う人があるので、
 
  奥山の石間の水をむすび上げて
   飽かぬものとは今のみや知る
 
(奥山の岩間の水をむすび上げておいて、今になって、飽きないものとお気づきになったのですね)
 
と言ったところ、水を飲んでいたその人が
 
  山の井の しづくに濁る水よりも
   こはなほ 飽かぬ心地こそすれ
 
(しずくが垂れても濁ってしまう山の泉のあの水よりも、これはなお、飽きない心地がするのです)
 
 東山に帰って、夕日が際やかに差しているので、都の方も残りなく見やられるのに、この「しづくに濁る」人は、京に帰るということで、心苦しく思ってか、翌朝早くに
 
  山の端に入り日の影は入り果てて
   心細くぞ眺めやられし
 
(山の端に、入り日の影もすっかり入ってしまうと、そちらの方が心細く眺めやられたのです)
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