釜飯屋の更級日記

花散里(一)

夏、麗景殿の女御のもとに参るついでに中河の女の家の前を通る。
 目的地が、御想像どおり人の出入りもなく静かなその有り様を御覧になるにも至って物悲しい。まず麗景殿の女御の居室で昔の物語などをおっしゃる内に、夜も更けてしまった。二十日の月が差し始める折にはこずえの高い木陰が一面にますます暗く見えて、近くのたちばなの香りが、慕わしく匂って、女御の御様子は、年たけてはいたが飽くまで、心掛けがあり、品が良く可憐である。「父上の覚えは優れて華やかということこそなかったが、慕わしく心の引かれる方とは思っておいでになったものを」などとお思い出しになるにつけても昔のことが、連なるように思われてお泣きになる。時鳥ほととぎすが、先ほどの垣根のであろうか、同じ声に鳴く。私を慕ってきたのだなと思われるほどにも艶であったのだ。
 
  いかに知りてか
 
(どうして知ったのか)
 
などと、忍びやかに誦される。
「 橘の香を懐かしみ
   時鳥 花散る里を訪ねてぞ問ふ
 
(橘の香が慕わしいので、時鳥も、花の散るあなたのお宅を訪れるのですよ)
 
故人の忘れ難さの慰めには、ちょうどここへ参らねばなりませんでした。殊の外、思いの紛れることも、数が添うこともあるのですが、大方の人は、世に従うものですから、昔話をぼつぼつ話せる人も少なくなってゆくのですけれど、あなたなどはなおさら、つれづれも、紛れることなく思われることでしょう」
とおっしゃると、本当に改めて言うに及ばない世の中なのだけれど、いたく悲しく物を思い続けておいでになるその御様子の深さにも、お人柄であろうか多く感慨が添うたのである。
 
  人目なく荒れたる宿は
   橘の花こそ軒の妻となりけれ
 
(荒れてしまったこの家では、軒端の橘の花こそが人のお見えの糸口となったのですね)
 
とばかりおっしゃったのが、やはり人よりは本当に立派なことだと思い比べられる。
土佐派『源氏物語画帖』 メトロポリタン美術館コレクションより
麗景殿の女御のところで花散里に行き会う。(花散里終)
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