釜飯屋の更級日記

澪標(二)


宮内卿の宰相の娘を明石の姫君の乳母として下向させる。
 紫の君には、明石のお産のことを言葉に表してはおさおさおっしゃっていなかったけれど、あれこれ聞いておいでになることがあるといけないからとお思いになって
「まあそういうことらしいよ。不思議にねじけた話でね。そうもなってほしいと思う辺りには待たされて思いの外のところにというのが口惜しいのです。女の子だそうだから、本当にいとわしいことですよ。訪ねず知らずでもいられるはずのことですが、そうそう見捨てられそうになくってね。呼びにやってあなたにも見せ奉りましょう。憎んではいけませんよ」
とおっしゃれば、面も赤らんで
「不思議なことに平生から、そんな筋のことを言い聞かせられてしまう私の心のほどが、我ながら疎ましいのです。こう人を憎むことは、いつ習ったのでしょうね」
と怨ぜられるので、源氏はにっこりと笑って
「そうだね。誰がしつけたのだろう。それにしてもそんなお姿を見るのは心外ですよ。人の本意ではない想像をして怨じたりなさるとはね。考えると悲しいことです」
と言って果ての果ては涙ぐまれる。
国立国会図書館デジタルアーカイブより
 年来、物足りなく恋しいと思ってくださったお心の内、折々には文を通わしたことなどをお思い出しになるにも「よろずのことは、慰み事であったのだ」と紫上は忘れてしまおうとなさる。
「あの人をこんなにまで思いやって物を言うのはなお、そう考える訳があるのですよ。しかし早くより申し上げればまた思い違いをなさるはずですから」と言いさされて「人柄が立派であったのも、所柄か、珍しく思われましてね」
などとお語りになる。夕べに塩を焼く煙の美しかったこと、その人が答えて言った言葉、正面からではないけれどその夜ほのかに姿を見たこと、琴のが艶に美しく聞こえていたことなどを総て、お心に留まったというふうに口に出しておっしゃるのにも、「自分は、又となく悲しんでいたのに、慰み事ではあっても心を分けておいでになったのだろう」とただならずお思い続けになって私は私というふうに後ろを向いて物を思うまま、私たちの仲も美しいものでしたねなどと独り言のように嘆いて
 
  思ふどちなびく方にはあらずとも
   我ぞけぶりに先立ちなまし
 
(思い合ったどうしのあなたたちがなびく方へでなくとも、私など煙になって先立ってしまえばいいのです)
 
「何だってまた。面白くもない。
 
  たれにより 世を憂み山に行き巡り
   絶えぬ涙に浮き沈む身ぞ
 
(誰のために、この世のつらさ故に海山を巡りゆき、絶えぬ涙に浮いては沈んでいるこの身でしょうか)
 
いやもう、いかにしてこの心を見せ奉りましょうか。総て見せるには命の方が、ままならぬもののようですけれど。だからこそたわいないことで人から面白くない思いを抱かれまいとそう思うのですが、それもただあなた一人の故なのですよ」
と言って箏を引き寄せて気の向くままに試し弾きをなさり、紫上にも勧められるけれど、例の人がこれに優れていたとかいうのが妬ましいのか、手もお触れにならない。
 この人は至って鷹揚で愛らしく、たおやかでいらっしゃるのだけれどさすがに、執念深いところがあって怨ぜられたのが、かえって愛敬があって、腹を立てられるのを、かわいらしく見所があると源氏はお思いになる。
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