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(十二)美濃

 そこより美濃の国となる境にて、墨俣すのまたという渡りを渡って、野上というところに着いた。
 そこに遊び女どもが現れ出て、夜もすがら歌を歌うにも、足柄にいた女たちが思い出されて感慨深く、恋しいことは一通りでない。
 雪が降ってひどく荒れるので事の興もないまま、不破ふわの関川、美濃山などを越えて、近江の国の、息長おきながという人の家に宿ってそこに四、五日いた。
 「みつさか」の山の麓では、夜昼、時雨、あられが降り乱れて、日の光もさやかでなく、はなはだいとわしい。
 そこを立って、犬上、神崎、野洲やす栗本くるもとなどというところどころは、これということもなく過ぎた。
 湖の面ははるばるとして、多景たけ島、竹生ちくぶ島などというところの見えているのがいたく面白い。
 勢多の橋は皆崩れていて、なかなか渡れない。
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(十一)三河

 そこより「ゐのはな」という、言いようもなく難儀な坂を上ってしまえば、三河の国の高師たかしの浜というところ。
 八橋やつはしは、名ばかりで橋は跡形もなく、何の見どころもない。
 二村山の中に泊まった夜、大きな柿の木の下にいおりを作ったので、夜もすがらいおりの上に柿が落ち掛かったのを、人々が拾いなどする。
 宮路の山というところを越える折は、神無月の下旬であるのに紅葉も散らないで盛りである。
 
  嵐こそ吹きこざりけれ
   宮路山 まだもみぢ葉の 散らで残れる
 
(嵐が吹いてこなかったのだ。宮路山には、まだもみじ葉が、散らないで残っている)
 
 三河と尾張との間にある志香須賀しかすがの渡りは、誠に、しかすがさすがに渡るのを思い煩うてしまいそうで面白い。
 尾張の国、鳴海なるみの浦を通っていると、夕潮がただ満ちに満ちてきて、
「こよい宿ろうにも、中ほどで潮が満ちてしまえば、ここを過ぎられそうもない」
と全員うろたえて、走って過ぎた。
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(十)遠江

 「ぬまじり」というところも滞りなく過ぎてから、ひどく発病して遠江にかかった。
 小夜さよの中山などを越えたとかいう折のことも覚えていない。
 はなはだ苦しいので、天竜という川のほとりに仮屋をこしらえたので、そこにいて数日が過ぎる内に、次第に癒える。
 冬も深まっているので、川風がしきりに荒々しく吹き上げて耐え難く思われた。
 ここを渡って、浜名の橋に着いた。
 浜名の橋は、下った時には黒木を渡してあったが、この度は跡すら見えないので、舟にて渡る。
 入り江に渡してあった橋なのである。
 外海はひどく波が高くて、入り江の、ほかに何もなくただ松原が茂っているむなしいと洲の真ん中より、波が寄せては返すのも、種々の色の玉のように見え、誠に松の末より波は越えて、はなはだ面白い。
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(九)富士川

 富士川というのは富士の山より落ちている水である。
 その国の人が現れて語ったこと……
「以前あるところへ参りました時に、いたく暑うございましたので、この水のほとりに休みつつ見ますれば、川上の方より、黄色をしたものが流れてまいって、物に付いてとどまっておりますのを見れば、反故ほごでございます。取り上げて見ますれば、黄色をした紙に、にて、濃く、折り目正しく書かれているのでございます。それが珍しくて見ますれば、翌年任官があるはずの国々を、除目じもくのごとく皆書きまして、翌年空くはずのこの国にも、国守を任命してございまして、それに添えてまた二人を任じておりました。これは珍しいと驚きまして、取り上げて、干して収めたのですけれども、翌年の司召つかさめしに、その文に書かれてありましたのと一つもたがわず、この国の守とありましたそのままでございましたのに、三月みつきの内に亡くなりまして、また成り代わりましたのも、その傍らに書きつけられておりました人だったのでございます。そのようなことがございましてねえ。翌年の司召などは、前年に、この山にたくさんの神々が集まって御任命になるのだなと拝察しました。珍しいことでございました」
と語る。
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(八)富士山

 富士の山はこの国にある。
 私の育った国では西表に見えた山だ。
 この山は本当に世に見えぬ有り様である。
 格別な山の姿で、紺青を塗ってあるようなところへ雪が消える折もなく積もっているので、色の濃いきぬに白いあこめを着ているように見え、山の頂の少し平らかになったところより煙は立ち昇る。
 夕暮れは、火の燃え立っているのも見える。
 清見ヶ関は、片一方は海であるところに関屋があまたあって、海まで柵をしてある。
 富士と一緒に煙り合っているのだろうか。それで、清見ヶ関の波も高くなるのだろう。
 楽しさは一通りでない。
 田子の浦は波が高くて、舟をこいで回る。
 大井川という渡りがある。
 水が尋常でない。すり粉などを濃いまま流してあるように、白い水が速く流れている。
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(七)足柄

 足柄山というのは四、五日も前から一面に鬱蒼として恐ろしげである。
 これから次第に入り込むという麓の辺りにあってすら、空の様子もはっきりと見えない。
 一面言いようもないほど茂っていて、いとも恐ろしげである。
 麓に宿っていると、月もなくて暗く、闇に惑うような夜に、遊び女が三人、どこよりともなく現れ出た。
 五十ばかりのが一人と、二十ばかりのと、十四、五のとがいる。
 いおりの前に唐傘を差させてそこに三人を据えた。
 男どもが火をともして見れば、昔「こはた」とかいった者の孫だという女は、髪は至って長く、額に本当に良くかかって、色は白く小綺麗で、このままで立派な下仕えなどにできるだろうなどと人々が感心していると、声はおよそ似るものがなく、曇りなく空に昇って、美しく歌を歌う。
 人々がはなはだ感心して近くで興じていると、西国の遊び女ではこうは行くまいなどと言ったのを聞いて
 
  難波なにはわたりに比ぶれば
 
(難波辺りに比べれば)
 
と美しく歌っている。
 見る目も至って小綺麗なのに、声さえ似るものなく歌って、これほど恐ろしげな山中に立ってゆくのを、人々は物足りなく思って皆泣くけれども、幼心にはなおさら、この宿りを立つことさえ物足りなく思われる。
 まだ暁という頃より足柄を越える。
 山の中はなおさら言いようもなく恐ろしげである。
 雲は足の下に踏まれる。
 山の中ほどばかりの、木の下の僅かな地面にあおいがただ三筋ばかりあるのを、世間に遠ざかってかくのごとき山中にも生えたのであろうよと人々が尊がる。
 水はその山に三所流れている。
 ここを辛うじて越えて出て、関のある山にとどまった。
 これよりは駿河である。
 横走よこはしりの関の傍らに岩壺いわつぼというところがある。
 言いようもないほど大きな四角な石の真ん中に穴が開いている。その中より出る水の清く冷たいことは一通りでない。
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(六)隅田川

 野山にあしおぎとの中を分けるよりほかのこともない。武蔵と相模との中にあって「あすだ」河というのは、在五中将が
 
  いざ言問はむ
 
(さあ問いかけよう)
 
と詠んだ渡りである。
 中将の集には隅田川とある。
 そこを舟にて渡ってしまえば相模の国になる。
 「にしとみ」というところの山は、絵の良く描けた屏風びょうぶが立ち並んでいるようである。
 もう一方は海だ。
 浜の様も、寄せては返す波の様子もはなはだ楽しい。
 唐土もろこしヶ原というところも、これは、砂のはなはだ白いところを二、三日行く。
「夏は大和なでしこが、濃く薄く、錦を引いているように咲くのです。それは、秋の末なので見えませぬ」
と人は言うのに、なおところどころは、落ち散りつつ、物悲しげに咲き渡っている。
 唐土ヶ原に大和なでしこが咲いたとは、などと人々がおかしがる。
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(五)竹芝

 今は武蔵の国になった。
 殊に風情のあるところも見えない。
 浜も、砂は白くなどもなく泥のようで、紫が生えていると聞いた野も、あしおぎとのみ高く生えて、馬に乗って弓を持つその末が見えないまでに高く生い茂っており、その中を分けて行くと、竹芝という寺があった。
 遠くに伊皿子いさらごというところの領の跡の礎などがある。
 いかなるところかと問えば……

 ここは昔、竹芝の坂といいました。
 そこにいた人を、火たき屋の火をたく衛士えじに奉りましたところ、その人が
「御前の庭掃きなどにどうして苦しい目を見るのだろう。国では、七つ三つと造って据えた酒つぼに、割ったひさごを渡してあって、それが南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびくのが見えて、それでいて、ここにこうしているのだものなあ」
と独りつぶやきましたので、その時、はなはだ大事にされておいでになったみかどの娘御が、ただ一人御簾みすの際に立って、柱によりかかって見ておいでになりますと、この男がかく独り言を言うのを……ああ、いかなるひさごがいかになびくのであろう……とはなはだ知りたくお思いになったので、御簾を押し上げて
「そこの男よ、こなたへ寄れ」
と召しましたので、男はかしこまって高欄のほとりに参上しましたところ、
「言ったことを今一度我に言って聞かせよ」
と仰せられましたので、酒つぼのことを今一度申し上げましたところ、
「我を連れていってそれを見せよ。それほどに言う訳があろう」
と仰せられましたので、恐れ多いと思いましたけれども、それも運命だったのでしょうか、負い奉って下りますのに、もちろん人が追ってくるだろうと思いまして、その夜、勢多せたの橋の本にこの宮を据え奉って、勢多の橋を一間ばかり壊して、そこを跳び越えて、この宮を負い奉って七日七夜という頃に武蔵の国に行き着きました。
 皇女みこがお見えにならぬと、帝、きさきは思い惑い、お求めになりましたところ、
「武蔵の国の衛士の男が、至って匂いの良いものを首に引き掛けて飛ぶように逃げたそうです」
と人が申し出まして、この男を尋ねましたところ、おりませなんだそうです。
 もちろん元の国に行ったのであろうと、朝廷から使いが下って追いますと、勢多の橋が壊れておりまして、先へ行けず、三月に及びますに武蔵の国に行き着いてこの男を尋ねますと、皇女はその勅使を召しまして
「我が運命でもあったのでしょうか、この男の家のことを知りたくて、連れてゆけと言いました。それで連れてこられたのです。ここにいることがうれしゅう思われます。この男が責めさいなまれるなら、我はどうしておれと。これも前世に、この国に垂迹すいじゃくすべき宿世すくせがあったのでしょう。速やかに帰って朝廷にこの由を奏しなさい」
と仰せられましたので、何とも言いようがなくて、参上しまして、帝にこれこれでございましたと奏しましたところ、
「言ってもかいがないな。その男を責めても、今は宮を取り返し、都に帰し奉るべくもない。その竹芝の男に、一生武蔵の国を預け取らせて、朝廷にも奉仕させまい。ただ宮にその国を預け奉れ」
という由の宣旨が下りましたので、その家を内裏のごとく造って住ませ奉りました所を、宮などが亡くなっておしまいになりましたので寺にしておりますのを、竹芝寺といっておるのです。
 その宮のお産みになった子供は、そのまま武蔵という姓を得ておるそうです。
 それより後、火たき屋には女がおりますそうな……
 
と語る。
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(四)太井川

 翌朝早くそこを立って、下総の国と武蔵の国との境になっている太井川の川上の瀬、「まつさと」の渡し場に泊まって、夜もすがら舟にてかつかつ物など渡す。
 私の乳母である人は、夫なども亡くしていて国境で子を産んだので、離れて別に上る。
 いたく恋しいのでそちらへ行きたく思っていると、私の兄に当たる人が連れていってくれた。
 皆は、仮屋といっても風が透かないように幕を引き渡しなどしているのに、こちらは、男なども添うていないので、本当に手をかけられず粗末で、とまというものを一重しかふいてないので月が残りなく差し入っているところに、くれないのきぬを上に着て、苦しんで伏している乳母には、月影も格別に透いて、いとも白く清げで、私のことを珍しく思ってなでては泣くのを、いたく悲しく見捨てがたく思うけれども、急いで連れてゆかれるその心地は、本当に物足りなく耐えきれない。
 乳母が幻に見えるようで悲しいので、月の興も感じず、気が塞いで伏していた。
 翌朝早く、車を担いできて舟に置いて渡し、向こう岸でそれを起こして、送りにきた人々もここから皆帰った。
 上る者もそこにとどまって行き別れる折、とどまるも行くも皆泣きなどする。
 幼心にも物悲しく見えた。
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(三)くろとの浜

 十七日の朝早く立つ。
 昔、下総の国に「まの」の長という人が住んでいたそうな。
 布を千匹も一万匹も織らせ、さらさせた人の家の跡ということである。深い川を舟にて渡る。
 昔の門の柱がまだ残っているのだという話で、大きな柱が川の中に四つ立っている。
 人々が歌を詠むのを聞いて、私も心の内に

  朽ちもせぬこの川柱残らずは
   昔の跡をいかで知らまし

(もしこの川の柱が朽ちもせず残っていなかったら、昔の跡をどうして知ったことだろう)

 その夜は「くろと」の浜というところに泊まった。
 片一方は広やかで、砂ははるばると白く、松原も茂って、月ははなはだ明るいところで、風の音もはなはだ寂しい。
 人々が面白がって歌を詠みなどするので、私も

  まどろまじ こよひならではいつか見む
   くろとの浜の 秋の夜の月

(まどろみもすまい。こよいでなくてはいつ見られよう。くろとの浜の、秋の夜の月を)