「不断経で声の良い
ということで、そちらに近い戸口に二人ばかりで立って出て聞きつつ、物にもたれて話をしていたところに参った人があったけれども、
「逃げるようにつぼねへ入って、人を呼び上げたりするのも見苦しいでしょう。さもあらばあれ、よい折だからここにいましょうよ」
と今一人が言うので、傍らに坐って聞いていたところ、静かに落ち着いたその素振りは、取るに足りない人とも聞こえない。
今一人はどなたかなどと問うて、世の常のように卒爾に懸想めいたことを言うでもなく、世の中の哀れなことなどを細やかに言い出して、私たちもさすがに、厳しく
「知らない人がまだいたのですね」
などと珍しがって、とみに立ってゆきそうもない間、星の光すら見えずに暗く、時雨が降っては木の葉にかかる音が面白いので
「こんな夜はかえって優美ですね。月がくまなく明るくても、間が悪くて恥ずかしいことでしょう」
そうして春秋のことなどを言って
「時に従って見ていきますと、春はかすみが面白く、夜空ものどかにかすんで、月の面も、あまり明るくもなく、遠く流れるように見える頃、琵琶の
と言い続けて、あなた方の心に残るのは何かと問うので、
もう一人が秋の夜に心を寄せて答えなさるのに、そうそう同じようには言うまいということで
浅緑
おぼろに見ゆる春の夜の月
(柳の糸は浅緑、桜の花も一つにかすみつつ、おぼろに見える春の夜の月こそ心に残ります)
と答えたところ、返す返す誦して、
「それでは、秋の夜は捨てて顧みられないのでしょうね」
こよひより後の命のもしもあらば
さは春の夜を形見と思はむ
(こよいの後にもしも私の命があれば、それでは、春の夜をあなたの形見と思いましょう)
と言うので、秋に心を寄せた例の人が
人は皆
我のみや見む
(人は皆、春に心を寄せてしまうようですね。私だけで見ることにしましょうか。秋の夜の月は)
と言うので、はなはだ面白がり、思い煩うたような気色で
「唐土などでも昔より、春秋論はできるものでないということですけれど、そんなふうに判断なさったお心には、思うにその故がございましょう。自身、心がなびいて、哀れとも面白いとも思うことのある折に、そのままその折の空の有り様や、月や花に心を染められるのでありましょう。あなた方が春と秋とを解するようになったその折のことが大いに承ってみたいですね。冬の夜の月といえば、昔より荒涼たるもののためしに引かれておりますけれども、またあまり寒うなどして格別見られもしませんけれども、私が斎宮の御
などと言って別れた後、誰とも知られまいと思っていたのに、翌年の葉月に、宮が内裏へお入りになるので夜もすがら殿上で御遊びがあったのにその人が伺候していたのも知らず、その夜はつぼねに明かして、細殿のやり戸を押し開けて外を見たところ、暁方の月が有るか無きかで面白いのを見ていると、靴の音が聞こえて、読経などしている人もあったのである。読経の人はこのやり戸の戸口に立ち止まって物を言ったりするのに答えていると、ふと思い出して
「あの時雨の夜が、片時も忘れぬほど恋しかったのですよ」
と言うのだけれども、言葉で長く答えるべき折でもないので
何さまで思ひいでけむ
なほざりの
(なぜそうまでお思い出しになるのでしょう。木の葉に掛かった時雨ほどの、なおざりなやり取りでしたのに)
と、最後までも言わぬのに、
「『以前の時雨のようなときに、何とかして琵琶の音を、覚えている限り弾いてお聞かせできましたら』ということです」
と聞くので、聞きたくて、私もそんな折を待ったのに更にない。
春頃、のどやかな夕方、あの方が参ったと聞いて、その夜一緒にいた人といざり出ると、外に
あの方もそう思ったのであろう。しめやかな夕暮れと推し量って参ったのに、騒がしいので退出したと見える。
心は得きや
(加島を見ながら鳴門の浦にこぎ出すのではありませんが、私たちが、鳴る戸をかしましく思いながら心はあなたに焦がれていたのを、理解しておいででしたか。いそにいる海士でもないあなたは)
と言うばかりで終わったのである。
あの方は、人柄も至って生真面目で、世間並みでもなく、その人はあの人はなどと尋ねることもなくて時が過ぎてしまった。